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血と雫

BACTERIA

森川誠一郎

Z.O.A


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MORIKAWA SEIICHIROU / 空 蝉 utsu semi

上を見な 飢えよ皆

うつせみ【空(△)蝉(×)】せみのぬけがら
そのようにこの世はたよりなくはかないということ
▽もとは「現(うつ)し臣(おみ)」の詰まった形で「現(うつせみ)身」はこの世の人の意

空 蝉 utsu semi
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  1. 搦のブルース karami no blues
  2. 共鳴り resonance
  3. 空気と水 inhale
  4. singing in the paper
  5. 雫さす pierce
  6. 現身 utsu semi
2002 Grand Fish/Lab(G.F/L-9903)CD
廃盤(2012年現在)
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KAGEYAMA HIROYUKI : electric guitar,acoustic guitar,12-strings guitar&e-bow
TANAKA SHINYA : bass guitar&voice
FUJIKAKE MASATAKA : drums&percussions
SACHI : voice&keyboards
LISA : voice
KIMURA MASAYA : saxophone
KUROKI SHINJI : electric guitar

MORIKAWA SEIICHIROU : voice,electric guitar,keyboards,lyrics&produced

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NAKAO KAZUHIRO (es.studio) : recorded&mixed
WATANABE SHINJI (Knockout Recording Studio) : mastered
AKITA KAZVNORI : artwork&design


「空 蝉」

散りさく此処に意図安らぎの 己知らずに粗華の固持

されど居回り限界難に 自ら飛び込み路頭に迷い 此処は宇宙か世の末か 独創無限の塊と 共に身を投げ個々は消滅

空想羨む憧憬眼 表面微かなゼリーの膜が 白銀色のアルミ紙 蛇腹蠢く高曇り 知らず知らずに背中の皮も ハロゲンランプに照らされ続け 気づくと散華の列の中

石灰岩を身に背負い 所々に杭を打ち 皮を鞣した頑強な 縄をグルグル巻き散らし 端隅の杭に絡み付け そーれやいのと力を込めて 一心不乱に引きましょう

喉頭塞ぎ日が暮れて 行けども行けどもずぶずぶと 腰まで浸かる膏土の海原

高徳は 知れず己は無視の声 雑念無性に忌々しい 葛藤哀れに収まらず 開放された開化の念は 無情に漂う 無念無体の塵と化し 皆無解散 発光微塵 只其々と 只其々と 増殖培養 思考は分裂 其れも良かれとふと身に返り 一種異様な外観は 照らし照らされ上の空

して絶景 天下の奇勝 一切纏わず衣を剥いで 人民讃歌の合唱が 遠く木霊す不協な和音

 「もしもがな もしもがな」

おんに纏りの針と糸 千人縫っても織り足りず 御礼参りも百度に足りず 雑踏燈 空前絶後の人一問

姿枯稿に老いさばえ 口は炎症ガザガザに 無数の鱗は 扇の様にささくれて 細く流れる詐術の膿は オブラアートの隅々に 深く広がる地紋模様

あたり一面 霜枯れ釈放

散らす餌付けの肉となり 色付き爛れた鱗の膿を 指を広げて掻き毟り 爪に染み込む長夜の憮然

実景選り付き焦点合わず 事の定めか身を切るか
散光飛び散る開化は永遠 筵敷かされ座るだけ
ヒドラジットに小粒の結晶 五臓と六腑に染みわたる
核とも言えず視界は見えず 螺旋の残像無我の軋轢

   芽吹く   手練は   志願の   昇殿    根づいた    身体は   虫媒花   鳴りを   潜めて   地中に   潜り   ならぬ   無性の   孤児と化す   自然に   生まれた   異の造形   足らぬ   姿は   映らぬ   肖像   何に   伴う   事   知る   由も無く   餓鬼に   いなされ   真っ赤に   腫れて   俗と   雇用で   皆楽し

 「上を見な 上を見な 此処に到来 飢えよ皆」

   躊躇い嵩む   見るも   無残な   雨模様   突いても   突いても   突き   止まず   針の   筵で   息   絶える

沖天一気に飛び立つ幻影 孔雀扇に広げた羽を
微塵も残さず毟り取り 潤んだ身体に貼り付けて
鱗の雲の空を見る 空を見る

日照憚る 落ちた枯れ葉の蝉時雨 我は可憐 ヨダレすだれに爛れた膿を 飲み干すまでには弱すぎる

人中誘う 時と矛盾の矛先よ 我が全てか己が先か 衣をよこせと夕凪に 古今無声の繰り返し

 「無くもがな 無くもがな やはり己も 無くもがな」

植え込み与えた蚕種の餌を 知らず知らずに口の中

日照人中憚る誘う 落ちた時と枯れ葉の矛盾の蝉時雨矛先よ 我は我が可憐全てかヨダレ己が先か すだれに衣を爛れたよこせと膿を夕凪に 飲み古今干す無声のまでには繰り弱返しすぎる
繰り 返し 繰り 返し 繰り 返し

殻に詰め込む思想の破片 塞ぐ断片零れ落ち
元に戻らぬ焦点は 波状に広がる槍と化し
無数に生まれる世の様々に
一本一本突き刺さる 突き 刺さる

鱗夜空に 轟く光終 奇声の先に 行き着く者と
歩み及ばず 留まる者が 異心重なり 異景を産んで
眩い惨画の 風景に 紐解く記憶は 昇華の極み

そして残るはこんじきの 破れた殻のただの空蝉

其れを被って赤子に戻り なみなみ溜まった羊水に

身体沈めて黄昏る

lyrics : morikawa

Liner Notes

フォークロア・ロック・アルバムとでも呼ぶべき音源

Z.O.Aの森川のソロアルバムである。

かつてはS-AMERICAやブダガヤゴウマといったユニットをZ.O.Aと並行して行ってきていた森川が、近年めっきり慎重なZ.O.Aの活動と対照的に、自ら積極的な姿勢を見せているのがソロ・ユニットである。各々キャリアを積んだミュージシャン達によるフリーな要素も取り入れたプログレッシブなロックに、森川の語り調のヴォイスが絡む。これがこの数年継続されてきた「森川誠一郎」名義でのライブにおけるスタイルだ。Z.O.Aに対する自らの愛情と思い入れはその活動を年に一度あるかないかという非常にストイックなものにし、ある意味、自身を追いつめかねない状況にすらなっている。だがその一方、有り余るアーティストとしての表現欲求と試行錯誤の「場」としてやはりライブは必要不可欠なものであったのだろう。そしてついにそれはZ.O.Aとは別の独立した確固たるひとつの音楽体系を完成させるにまで至ったのである。

具体的に今回のアルバムでは、今までのライブにおけるスタイルをベースに前述の通りフリーな要素、プログレッシブなフリーに加え、ジャジーな空気を多分に匂わせるアレンジも顔を覗かせ深みのある展開を見せる。とはいえビートが刻まれるフレージングは、まさしくロックそのものである。そこに極めて日本的情緒のある女性ヴォーカルが入る。そしてなんといっても全面を占める森川の語りである。

「搦のブルース」というコンセプトは既に5年ほど前のライブでも見られたが、そのときのテキストは宮沢賢治だったように思う。が、現在の自身によるリリックの根幹を成しているのは、上を見な/飢えよ皆、といった言霊遊びも含め芥川の羅生門や末法思想に通じる日本独特な「情念」と「異形」と「空虚」の世界観。それを森川はロック・ヴォーカルのスタイルでなく、琵琶法師の如き口頭伝承のスタイル=語りで表現する。そうした「陰」の性質を多分に負った詞と対照的に、音は後半に入り「陽」の性格が顔を表す。

舞踏の創始者、土方巽が晩年心血をそそいだ東北歌舞伎計画は遂に完成を見ることはなかったが、その中で土方が目指した「暗黒を突き抜けた後のカーニバルのような華やかさ」に非常に近い感覚を備えた開放感溢れるチューンで一旦終結へ向かうと思わせる。しかし、その夢の如き華やかさも長くは続かない。我に返ったかのように諸行無常の儚さを携えたエンディングで現実に引き戻される。やはり居場所は此処しかないのだといわんばかりに。最終的には、夕暮れの黄昏に立ち尽くす己の全身に支配する寂寞感とでも言うような感覚に襲われる。

加えてこのレコーディング作品がライブで再現可能であるという点も重要ではないだろうか。以前より「ライブとアルバムは同じ」と発言し、実際Z.O.Aでも初期からオーバーダヴィングを極力抑えたライブに近いサウンドで作品を作り続け、ついにはライブ盤しか出さなくなり、最新アルバムはレコーディング作であるにもかかわらず、音はやはりライブのそれであったが、この作品もまた同じ構造といえる。正直にいえば、サンプルを聴いた時点では、レコーディング色の強い作品に仕上がったという印象であったが、先日のライブで幾つかの僅かな音源を除いてほぼ完璧に再現されていた演奏を聴いてその考えを改めた次第である。特にリズム隊にトリプルギターとサックスの絡んだ冒頭一曲目のイントロの音の分厚さは圧巻の一言であった。

このように、今回のアルバムに対し森川はZ.O.Aとほぼ同一の方法論をとっている。ということは、はたしてこのプロジェクトとZ.O.Aとの差異はいったい何なのか、という疑問も湧いてくる。ユニットとバンドという編成の差異や、静と動という主にヴォーカル・パートに対する印象の差異はあれど、基本的な「森川のコンセプトを体現する」あるいは「森川自身を体現する」為の集合体であることに本質的に差異は無い。無いのだ。あるとすれば、先に加え、クレジット上の差異とそれに対する聴き手側の意識だけではないだろうか。事実、ぼくは今回のアルバムもライブも先のZ.O.Aのアルバムとライブと同じように、その紡ぎ出された音塊によって素晴らしい高揚感を得ることが出来た。そして、それは大袈裟に言ってしまえば、森川という人間の抽出された本質の一部に触れた事に他ならないのであるから。

この数年繰り返し行ってきたソロ・ライブ活動が端を発し、ここへ来て森川の中で「何か」が成熟し一気に至高点へ登りつめた、そんな感じがする。その一瞬の熱さのようなものを逃さず素早く捕らえ、森川はこの一枚のアルバムに封じ込めた。だから活動期間の割に音全体に初々しさが漂っているし、楽器の音ひとつとってみても活き活きとしている。陰の部分(リリック)と陽の部分(サウンド)を併せ持った、今流行りの昭和歌謡ロックや三味線ロックとは全く別次元の和洋融合の作品を森川は産みおとすことに成功したと言えよう。高水準なフォークロア・ロック・アルバムとでも呼ぶべき音源の誕生である。と同時に森川はふたつのベクトルで自らの世界観を完璧に具現化する方法を手中に収めたことにもなるのだ。

川口トヨキ(BACTERIA)

Review

Z.O.A のフロントマン、森川誠一郎の初となるソロ・アルバム『空蝉』はさまざまなレベルで衝撃的である。まず、ヴォーカリストのソロ作であるにもかかわらず、いわゆる歌メロらしい歌メロを森川は一切排除している。古文や漢文のような詩が七五調に徹底した語りでアルバム全体を貫く。その語りに黒百合姉妹のLISAによる英語のナレーションが交互に絡み合い、さらにキーボード奏者でもあるSACHI という女性が唯一といっていいメロディを歌うが、しかしSACHI の歌は歌詞のないスキャット。つまり森川の語りを軸に彼の日本語と英語の対比、そして両者のメロディのない声に対しスキャットによるメロディの声という多層性が編まれているわけだ。そしてさらに作品中随所に七五調とは別個の語りも挿入されている。例えば昭和天皇による終戦放送の詔勅を彷彿とさせる語調の語りや、“上を見な 飢えよ皆”といった言葉遊び的応答部などが、陰に沈んだかのような七五調の語りにユーモラスな亀裂や場面転換のような効果を入れている。

こうした豊饒な言葉と声の方法に音楽的生命を注ぎ込んでいるのが、Z.O.A で同僚の藤掛や黒木、田中、そしてゲストメンバーによるプログレッシヴかつジャズ・ロック的なプレイによるバンド・サウンドである。70年代のプログレッシヴ・ロックに親しい者なら、すぐさま反応するはずのフレーズやアプローチが、それとわかるかたちで『空蝉』には出てくる。例えば、アルバム出だしのフレーズはクリムゾンばりのサックス・プレイが重なり、森川いわくバロウズをモチーフにしたという「singing in the paper」というコラージュ・トラックではピンク・フロイド「マネー」のスロットマシン音になぞらえたかのようなタイプライター音がフューチャーされるなど、ある種のパロディを思わせるパートがある。こうしたパート、フレーズに対するありがちな反応を当然、森川は心得ている。「頭の堅い人たち」と彼は言うが、これだけ堂々と、なおかつ非常にわかりやすいかたちで構成しているからといって森川の意識に何か挑戦的なものがあったのかというと、どうやらそれもオカド違いらしい。「もう身に染みついているものだから、意識もへったくれもない」と彼は言う。確かにいきなり出だしから、それも初のソロ作でというのに「スターレス」ばりのフレーズが出てくると、どこか眉をひそめたくもなるが、聴き進むうちにそんなことはどうでもよくなり、総勢8人による言葉と声とスリリングなプレイにのめりこむ。そして終盤に至ると、それまで軸になっていた森川の語りが抑えられ、スキャットが前面化する。まるで影と光がクロスするかたちで絶妙なグラデーションを描き、歓喜に満ちたカタルシスが訪れるのだ。

最近の森川は語源か何かの資料を読み、そこからイメージを膨らませて詩作に結びつける場合が多いという。つまり何かの作品化されたものからインスパイアされるのではなく、原点に拠るところが大きいという。『空蝉』の音楽は森川が事前に作曲したいくつかのフレーズを元に、あとはセッションで作り上げたものだ。つまり、この点においてもクリムゾンやフロイド、バロウズや昭和天皇は彼にとって“資料”なのかもしれない。

いずれにしろ、『空蝉』には他に類を見ない音楽が屹立している。なるべく頭を柔らかくして触れてもらえれば自ずと音楽は浸透してくるだろう。

石井孝浩(Fool's Mate)
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森川誠一郎と彼のバンド、Z.O.Aについて、簡単な説明を試みたものの、このCDの前には無駄な悪あがきにすぎない気がする。さらに先日、この作品をライヴで耳にする機会を得たが、その空間、そこで目と耳と肌で直接感じた感覚を思えば、これから書こうとしているレビューなど、何をか言わんやである。が、せっかくの機会なので、あくまで一方的な主観を、無理矢理言葉にしてみたいと思う。

ここに収められているのは一般的に歌と呼ばれるものではなく、音楽と言葉である。森川が語る詩は、日本語の美しい七五調のリズムと、芳醇な言葉と響きの数々に彩られ、無限のイメージを広げてくれる。そして、ギターやピアノ、ドラム、サックスといった楽器から生まれる音楽と絶妙な均衡を保ちながら、濃密な空気を醸し出し、その中で張り詰めた緊張はどこまでも高まっていく。 決して耳障りがいいとは言えない。その世界の大きさや広さや深さに、圧倒され呑み込まれるような気がして、立ち往生してしまうかもしれない。しかし、最後の曲「現身 utsu semi」を聴き終えた後には、我ながら不思議な気がしなくもないのだが、光に満ちた穏やかな空間のイメージが残るような気がした。もし聴き始めて、躊躇してしまった人がいるのなら、とにかく最後まで聴いてみてほしい。CDプレーヤーが止まった後、きっともう一度、再生ボタンを押してみる気になるだろう。

村山 幸(アプレゲール)

Attention! ここに掲載している内容は2002年当時のものです。

Grænd Físh/Læb

manufacturing by Grand Fish/Lab